中小企業は「悲劇のヒロイン」なのか? — マルクス経済学的なパラダイムを乗り越える

★★☆ ちょっと専門的(研究に関心のある方々へ)

日本の中小企業をめぐる議論や世論の報道を見渡すと、そこにはある共通した空気感が漂っていることに気づかされます。それは、大企業が強者として君臨し、中小企業はその陰でひたすら理不尽な目にあわされている、という構図です。

まるで中小企業を、自らでは運命を変えられない「悲劇のヒロイン」のように描く視座は、実は単なる世間の印象論ではありません。中小企業研究の一つの派閥のなかに、きわめて強固な学問的フレームワークとして組み込まれている世界観なのです。

すでに独自の強みを持ち、付加価値の高い経営を実践されている経営者の方々にとっては、こうした世間のまなざしに違和感を覚えることも少なくないかもしれません。今回は、この広く浸透している「悲劇のヒロイン」というイメージの正体をひもとき、そこにどのような死角があるのかを客観的に検証してみたいと思います。

アイキャッチ画像は、ミレーの「オフィーリア」です。


目次

支配的な世界観 — 大企業体制と3つの悲劇

現代の中小企業論において、こうした歴史観を代表する高名な研究者が黒瀬直宏氏です。黒瀬氏の議論は、多くの学生が手にする教科書『21世紀中小企業論〔第4版〕』(有斐閣、2024年)のなかでも色濃く展開されています。

ここで強調しておきたいのは、本稿の目的は黒瀬氏という個人を批判することではないということです。そうではなく、彼に代表される、かつてのマルクス経済学の系譜を引いたある種の世界観(パラダイム)そのものを学術的に見つめ直すことにあります。

この世界観の根底にあるのは、大企業体制という基本構造です。大企業体制というのは、産業の最もおいしい中心部には少数の巨大な寡占大企業が居座り、中小企業は儲からない周辺の産業領域に追いやられるか、あるいは大企業の下請けとしてその支配システムに完全に組み込まれている、という世界観です。

この体制のもとで、中小企業には必然的に3つの悲劇が降りかかると説明されます。

第一に、収奪問題です。これは下請け取引などに典型的に見られるもので、大企業が圧倒的な立場を利用して単価を買い叩くなどし、本来なら中小企業が手にするべき利益(付加価値)を不当に吸い上げてしまう構造を指します。

第二に、経営資源問題です。大企業は高い生産性や中小企業から得た資金力を背景に、高い賃金や社会的信用を社会に提示できます。そのため、優秀な人材や低金利の資金を大企業が独占することになり、中小企業は経営資源の獲得において常に不利な劣位に置かれ続けるという、抜け出せない格差の悪循環です。

第三に、市場問題です。大量生産能力や強力な広告宣伝力を持つ大企業と正面から戦っても勝てないだけでなく、大企業が不況に陥った際には、在庫調整や部品の内製化(自社製造への切り替え)のしわ寄せが下請けに回り、中小企業の市場や仕事量が強制的に縮小させられてしまうリスク全般を意味します。

これらの悲劇がまとめて襲い掛かってくるので、中小企業はほぼ必然的に苦しい状況に陥ってしまう。もちろん例外的に力強く発展している中小企業もあるけれども、中小企業の大半は理不尽に苦しんでいる、というのが黒瀬氏の世界観です。

なるほど、いかにも「悲劇のヒロイン」ですね。


語り継がれてきた戦後経済史の衰退ストーリー

この3つの問題(収奪・経営資源・市場)の軸を用いて、教科書は戦後の日本経済史をひとつの美しい衰退のストーリーとして描き出します。

まず、1950年代末から1970年代初頭にかけての高度経済成長期は、中小企業にとって比較的幸福な緩和期であったとされます。年率10%を超えるような圧倒的な勢いで経済全体が拡大していたため、大企業が中小企業のパイを無理に奪う必要がなく、その結果として収奪問題や市場問題が一時的に和らいでいたという解釈です。

しかし、1970年代中盤のオイルショックや変動為替相場制への移行による円高を契機に、経済成長が減速すると潮目が変わります。拡大が止まり始めた市場で大企業の支配力が強まり、3つの問題が再び牙をむき始めます。

そして1991年のバブル崩壊以降の長期停滞期に入ると、この問題は未曾有の激化を遂げたと説明されます。大企業が自らの収益を維持するために、生産拠点を中国などの東アジアへ移転させたことで、それまでの国内完結型の生産体制が崩壊。国内の中小企業は、海外の圧倒的な低賃金労働力と比較され、猛烈なコストカット(収奪問題の激化)を迫られることになりました。さらに、従来の企業系列が解体され、選別された優秀な下請け以外は取引を打ち切られるようになり(市場問題の深刻化)、金融機関の貸しはがしや高度人材の不足(経営資源問題の悪化)が重なった結果、廃業や倒産が相次ぐ現代の悲劇へと至るというわけです。

運命に翻弄される中小企業。

ああ、悲劇のヒロインたち。


第1の見落とし:大企業の歴史的貢献とグローバルな自己防衛

この一見すると完璧に整えられた衰退のストーリーには、経済の実態を捉える上で重大な死角が2つ存在していると私は考えています。

ひとつ目の見落としは、戦後日本経済を牽引してきた大企業の歴史的貢献と、大企業が直面していた厳しい現実への視点です。

この「悲劇のヒロイン」のストーリーでは、大企業は一貫して搾取を行う悪者として描かれがちですが、それは一面的な見方に過ぎません。実際には、下請け中小企業に対して徹底的な技術指導を行い、日本のものづくりの現場全体の生産性を引き上げてきたのは親企業である大企業でした。また、莫大なリスクを背負って研究開発に投資し、世界に通じる国際競争力を持った製品を生み出して、日本という国に外貨をもたらし続けたのも彼らの功績です。戦後の日本人が豊かな生活を享受できるようになったのは、大企業が稼ぎ出した外貨によって、海外からさまざまな物資を輸入できるようになったからに他なりません。

さらに、1990年代以降の海外移転についても、大企業が身勝手に国内中小企業を見捨てたという描写はあまりに単純化されています。当時は急激な円高の進行に加え、後進国による猛烈な追い上げがあり、それまで日本を支えていた自動車や家電などの国際競争力が激しく低下していました。大企業が生き残るために選択した海外移転やコスト管理は、身勝手な利益追求というよりも、グローバル市場の荒波のなかで会社を存続させるための必死の自己防衛であったという多面的な事実を見落としてはなりません。


第2の見落とし:生存環境の激変と適応のタイムラグ

ふたつ目の見落としは、中小企業を終始、環境に翻弄されるだけの受動的な存在として描き、その内側の変化に目を向けていない点です。

ただ、ここで極めて重要なのは、私は決して自己責任論を唱えたいわけではないということです。「経営を高度化できなかった中小企業が悪いのだ」というような、安易な善悪の判断や道徳的な非難を持ち込むことは、研究者として厳に慎まなければなりません。

歴史的な事実として、1970年代くらいまでの日本は、極端にいえばマーケティングを必死に勉強しなくても、近代的な管理会計の仕組みが分からなくても、店に物を並べれば売れるような時代であり、あるいは仕事が腐るほどあるような時代でした。この温室のような環境のなかで、企業風土や経営者の行動様式が形成されてきたわけです。

しかし、人間も組織も、育ってきた環境がどれほど劇的に変わったからといって、ある日突然、別人のように生まれ変わることはできません。長年慣れ親しんだ経営スタイルから、企画やマーケティング、科学的なマネジメントを取り入れた高度な経営へと自らを即座に変革させることは、構造的にきわめて困難なことなのです。高度化に踏み出せなかった企業には、そうならざるを得なかった歴史的・環境的な文脈が確かに存在します。

一方で、マクロ経済の拡大が完全に止まった長期停滞期においては、かつてのように努力の有無にかかわらず生存できるという前提そのものが失われてしまいました。結果として、時代の変化と自社の経営スタイルのギャップを埋められなかった企業が市場から振り落とされていくという、資本主義における構造的な淘汰が起きていることもまた、冷徹な事実ベースの指摘として認めざるを得ません。

つまり、現在の中小企業の困難は、経済環境の激変と、それに対する人間の適応スピードのタイムラグという構造的な摩擦によって生じている側面が大きいのです。


イデオロギーを脱し、自律的な変革の主体へ

特定のイデオロギーに基づいた「中小企業=悲劇のヒロイン」という被害者史観に安住している限り、私たちは外部の環境を呪うことしかできなくなってしまいます。「大企業が悪い」、「国や自治体が助けてくれない」という嘆きのなかに、これからの時代を生き抜くための建設的な知見を見出すことは困難です。

すでに自律的な経営を実践し、自らの力で市場を切り拓いている優れた経営者の方々にとって、この古いパラダイムの死角を理解することは、自社が取り組んできた近代的な経営努力の正当性を改めて客観的に確認する作業にもなるでしょう。

中小企業は、けっして運命に翻弄されるだけの無力なヒロインではありません。環境の変化を冷静に見つめ、自らの意思で経営を近代化し、高度化させていくことができる能動的な変革の主体です。中小企業を「悲劇のヒロイン」というイメージから解き放ち、自律した経営主体としての中小企業像を再構築していくことこそが、これからの時代の中小企業論に求められている新しい視座なのです。

シェアしていただけると嬉しいです!
  • URLをコピーしました!
目次